真冬の夜の夢
五年前のことだった。
二十世紀最後の、その、始まりの月は、おれが就職してむかえる最初の本格的な冬だった。
月曜日のあの夜は、前日の日曜日にひと鍋つくっておいたカレーを、仕事から帰ってきて独りで食べ、六畳一間のアパートで炬燵にあたってテレビを見ていた。八時すぎた頃だったと思う。玄関のドアをノックする音がした。呼び出しブザーはあるのに、来訪者はノックをつづけた。こんな夜に、誰だろうと思った。吹雪で、今夜はかなり冷え込みがきびしい。
「……はーい」
しかたがないので、炬燵から出て、玄関のドアを開けにいった。
だが、ドアを開け、おれはドアノブを握ったまま固まってしまった。
外気が予想以上に寒かったからではない。
「……あの……今夜……泊めてください」
おれにむかってつぶやいたソイツの吐く息は白く、背後には、夜目にも真っ白い粉雪がひゅーひゅーと横なぶりに舞い飛んでいる。外は猛吹雪だった。ガクランを着たソイツは、セーラー服を着た女の子と手をつなぎ、おれの顔にすがるような視線をむけていた。
「……えっと、……部屋、まちがってない？」
手を握り合い並んで立ちつくす見ず知らずの高校生カップルに、おれはそう言った。
「平野サン……っスよね……？」
ガクランは、まちがえてはいない、と首を横にふりながら問い返してくる。
「そう……だけど……、おれ、きみたちのこと、知らねえし……」
「佐々木センパイが、平野サンとこなら、おれたちを泊めてくれるはずだって」
おれが言い終える前に、ガクランは言った。友人というより悪友の佐々木の名前が出て、思わずおれは「おまえ、佐々木の後輩？」と訊き返す。
ガクランはうなずいた。
「おれたち……駆け落ちしてきて、今夜泊まるとこなくて、お願いします」
言いざま、肩をゆするようにして頭をさげた。
「か、駆け落ち……！？」
おれは顎がはずれそうになった。眼鏡も鼻からズリ落ちかける。いきなり、なんの前ぶれもなく、見ず知らずの他人のアパートへ訪ねてきて、高校生の分際で、駆け落ち……。
しげしげと、なかば呆れつつ、駆け落ちしてきたという高校生カップルを見つめた。
二人の頭は雪まみれで、前髪のあたりは少し凍りかけている。黒いガクランにもセーラー服にも、はりつくように雪がうっすらと白く積もっていた。コートも着ないで家を飛び出してきたのか……とも思ったが、高校生は真冬でもコートなんて着ないもんだ、と三年前の自分を思い返していた。
どれほど歩いてきたのか分からないが、二人とも唇が紫色になりかけている。さすがに追い返すわけにはいかなかった。あの佐々木の後輩なら、駆け落ちもありかもしれない。おれは覚悟を決め、寒さでふるえる二人を部屋に入れた。
「カレー、食べるか？」
そう訊くと、すぐに二人ともハッキリうなずいた。よほど腹が減っているらしい。ガクランとセーラー服を炬燵にあたらせると、おれは食事の支度をした。二人に食事させているあいだ、佐々木へ電話をする。佐々木は、仕事場のガソリンスタンドにいた。
『平野、ソイツらのこと頼む。おまえんとこなら、なんとか三人ぐらいゴロ寝できるだろ？』
「できっけどよ、そういう問題じゃねえべ。なんで事前に連絡くれなかったんだ？」
『あ、わりぃ。今夜は忙しくってよお』
深刻さのかけらもない声に、おれは溜息をつき「今夜だけだ。あとは、おまえが面倒みてやれよ」と言って電話を切った。
「……すんません」
電話を聞いていたガクランが言う。それなりの気まずさに、バラエティ番組を見るともなしに見つつ、おれはインスタントコーヒーをいれた。炬燵にあたってコーヒーをすする高校生たちへ「おれは明日、仕事へいくから、おまえたちも、おれが朝出る時間に、一緒に出ていってくれ」と告げると、ガクランだけが小さくうなずいた。セーラー服のほうは無表情で、おれの顔を見ようともしなかった。
しかし、というか、予想通りというか、高校生カップルは、おれが出勤する時間になっても布団から起き上がろうとしなかった。二人は制服を着たまま眠っていた。布団は二組しかなかったから、ガクランを真ん中にしてその左右におれとセーラー服が並んで、川の字になって眠った。
「鍵、おいてくから。部屋を出てくとき、この封筒へ入れてポストに落としておいてくれ」
炬燵の上にアパートの鍵と空封筒を置いて、おれはガクランへ言った。ヤツは布団から首だけ出してうなずいた。
アパートを出てから、アイツらはおれの部屋でエッチするつもりなのか……、と思ったが、怒る気になれなかった。鼻水まで凍りそうな朝で、夜に積った粉雪をきゅっきゅっとスノトレで踏みしめているのに、おれの気分はまだ混乱したままで、現実感がどうにも乏しかったからだ。
その日、おれは定時で仕事をあがると、急いでアパートへ帰った。一月末は、幸い残業が少ない時期だった。地方銀行に就職して外回り勤務しているおれには、冬はつらい季節だったが、真夏よりは身体は楽だった。
アイツらがいませんように、と願いながらアパートの階段をあがる。おれの部屋は二階の東端だ。
だが、部屋には明かりがついていた。ドアノブをまわすと、もちろん鍵はかかっていない。
「おまえ……まだ帰んなかったのか」
呆れるおれに、ガクランは炬燵に入ったまま「おかえりなさい」とだけ言った。
「……女の子は？」
セーラー服の姿はない。ガクランは「家に帰った」とつぶやき、しばらくしてから「おれ、アイツに付き合っただけだし」と、薄く剃った眉をしかめて言う。
「はあ……？」
立ちつくしたまま、さらにおれが呆れると、ガクランは肩をすくめるように頭をさげた。
「今夜も、泊めて欲しいっス」
「……おい」
「ほかに、いくとこねえし」
「……学校、サボってんのか？」
「おれ、三年だから、あといかなくても、どうってことねえし」
受験はないのかと問うと、ガクランは、専門学校へ入学が決まっていると答える。願書を出しただけで入れるところらしい。
「泊まるのはいいけど……家に連絡しろ」
おれは電話機を差し出した。そして訊き忘れていたこと……というより、今夜も部屋に泊めるなら訊いておくべきことを訊いた。
「おまえ、名前、なんつーの？」
そのとき、ヤツは初めて笑った。
「遠藤っス」
あんがい、さわやかに笑えるんだなと感心した自分に、むしろおれは驚く。
遠藤が自宅へ電話すると、受話器のむこうの親は、息子の家出を恒例のことと受け止めているらしく、淡々ときわめて口数の少ない会話で終始した。
「……おれ、カレー全部食っちまった……」
電話を切ると遠藤はやや申し訳なさそうに言ったが、おれは、部屋に敷きっぱなしの布団やゴミ箱にエッチの痕跡があるのかないのかで、頭がいっぱいだった。布団に格別な乱れはなく、ゴミ箱にも生々しい匂いのするティッシュとか捨ててないようだ。ことが終わったあとで、コイツが完璧に始末したなら別だが、そこまでするタイプには見えない。
そう確信して、おれは一応ホッとする。
「んじゃ、近くのラーメン屋でいいなら、食いにいくか？」
そう誘うと、遠藤は二度も大きくうなずいていた。
「……アイツ、進学のことで親と揉めて大喧嘩したらしくって、おれに、家出るの付き合ってくれって……。とにかく駆け落ちしてくれって……。んで、なんだか可哀想になっちまって……」
そういう訳で、突然、おれのアパートへ転がり込んだのだ、と遠藤は言いたいらしい。昨夜のセーラー服は、どうやら以前に付き合っていた彼女のようだった。
「じゃあ、なんで今夜もおれんとこに……？」
スープの湯気でくもった眼鏡をシャツの裾でふきながら言うと、遠藤は黙ったまま、じっとおれの顔を見つめてくる。返事をしようとしないので、さらに訊いた。
「佐々木の家に泊まるのは、気まずいのか？」
佐々木は両親と住んでいる。さすがに女の子連れはマズイだろうが、遠藤だけなら大丈夫のはずだ。けれど、部活の先輩の世話になることに、場合によって良し悪しがあるのは、おれにも理解できる。
おれと佐々木は高校も違うし、学年もおれのほうがヤツより一年上だ。おれのいきつけのガソリンスタンドに佐々木が勤めていて、それでヤツと知り合った。バイクの趣味が合って、去年の夏は北海道へツーリングした仲だった。
「え……と」
餃子へ箸をのばしつつ、おれの顔から視線をそらし、ようやく遠藤はつぶやいた。
「……カレーが旨かったから」
眼鏡をかけなおして、改めて正面に座るガクラン姿の高校生を見た。おれの部屋に泊まっていたい理由になるような、ならないような返事に、腹が立つよりも、呆れるよりも、不思議な気持ちがしていた。
「んと……専門学校にいくって言ってたよな。なんの学校……？」
「美容師の」
なるほど、と思う。遠藤は髪を染めていなかったが、流行りの髪型をバッチリきめていた。餃子をしっかりはさむ割り箸を持つ手は、大きくてきれいで繊細さが漂っていなくもない。よくよく見れば、顔立ちもシャープで、それなりに女にモテそうだ。
美容師という職業選択は、コイツにむいてそうだと思える。知り合ってたった二日目のおれが自然にそう思える遠藤の持つ雰囲気が、ふと急に、うらやましくなった。
まだ学生生活をつづけられるヤツが、平凡極まりないサラリーマン生活を送っているおれには、ただそれだけで、うらやましいのかもしれなかったが……。
「平野サンて……、名前、なんて読めば……」
そう問いかける遠藤の頬が、妙に赤らんでいるのは、ラーメンを食べて身体が温まってきたからだろう。
「スバルって読む」
鍵を入れておくように指示した空封筒は、おれの住所と名前が印刷してあるダイレクトメールだった。『昴』という名を、ちゃんと読める若いヤツはほとんどいなかったから、コイツもそうなんだろうと、わざわざおれの名前の読み方を知りたがった遠藤の問いかけをまったく気にしなかった。
「それより、明日は家に帰れよ」
そう言っても、聞いているのかいないのか、遠藤はなぜか頬を染めたまま、残りの餃子を黙々と平らげていた。
アパートへ帰ると風呂に入り、遠藤にはジャージを貸した。布団へもぐり込むと、おれはすぐ睡魔におそわれた。さすがに昨夜はあまり眠れなかったらしいと、ぼんやり思ったまま、たちどころに熟睡してしまった。
翌朝も、遠藤はおれと一緒に起きなかった。前日同様の指示をして出勤するが、ヤツが家に帰るとは思えず、それでも帰宅のさいには「いませんように」と祈りながらアパートの窓を階段下から見あげてしまう。もちろん、明かりはしっかりついていた。
複雑な気分だった。
ヤツがいなくなっていたら安堵するだけだが、まだいるとなると、どうにかしなければならない。佐々木に引き取りにきてもらうか……。
そう思いあぐねている自分が、なにか楽しい気分になりかけているような、気もする。
だがしかし、部屋へ入ってみると、そんな自分はヌルかった、と怒りが湧いた。
「あ、おかえりなさい」
のどかに遠藤は言った。ファミコンをしている。顔はモニターへむいたまま、おれをふりかえろうともしない。
「おま……、人が働いているあいだ……人んちの物を勝手に……！」
おれだって、仕事になんかいかないでファミコンをして遊んでいたい。
おれなんて、まだ、仕事にやり甲斐を見い出せない。
仕事は、ときどき楽しいが、つらいときのほうが多い。いくら頑張っても、地元短大の経済学部卒だから出世だって学歴的に厳しい。
「……ヒマだったから……」
ようやく遠藤はファミコンをやめる。突っ立って睨んでいたから、おれが怒っていることに気づいたらしい。怒っているのを気づいただけマシかと、あとはなにも言わず、おれは佐々木へ電話した。ところが佐々木がつかまらない。スタンドには勤務を終えて帰ったと言われ、家に電話すれば、家にはまだ帰っていないと言われた。そういえば佐々木は最近、新しい別の彼女ができたとか、二股かけそうになってヤバイとか、はしゃいでいたような気がする。
しかたなく、佐々木にすぐ連絡をつけるのを諦めて炬燵に座った。「どうすんだよ……」と、つい、つぶやく。眼鏡をはずして眉間を指で揉んだ。なんだかドッと疲れを感じている。遠藤や佐々木みたいに、いい加減に遊べるヤツには彼女ができて、おれみたいに真面目に働いている人間に彼女ができない……。
『平野くんって、眼鏡はずすと星の王子様みたいにきれいな眼をしてるのに、もひとつ冴えないんだよね』
同期で入行した女のコから、忘年会で言われたことを思い出す。かげで言われていることを直接本人へ言える、おれにとってありがたい『友人』だと彼女は勝手に自認しているが、おれはそのコが好きだった。
「スーちゃんて、やっぱ、すげえ睫毛ながい」
遠藤はにじりよってきて、おれの顔をのぞき込んだ。
「……は？」
眉間を揉んでいた指が思わず固まる。
「……スーちゃんって……まさか」
「平野サンなんて呼びづらいっス。おれのことは昌央…マサオ…でいいっスよ」
遠藤の即答に絶句していると、ヤツは指先でおれの髪へそっと触れた。
「髪、まっすぐで柔らかくてきれいっス。ちゃんとした美容師にカットしてもらえれば、スーちゃんカッコ良く見えんのに」
それぐらいで女にモテるなら苦労はしない。カッコ良く見えるかどうかは、髪形だけじゃないだろう。ただ確かにおれは、もう少し外見を気にしてセンスを磨けと、まわりの人間から言われることが多かった。
「……遠藤が美容師になったら、おれの髪形をなんとかしてくれ」
髪を、サラリ、サラリと、かきわける指先が、なんだか気持ちいい。コイツには髪をいじる才能がマジであるかもしれない。
沈黙のあと、ためらいがちに、遠藤は「うん」と言う。
その、しばらくあった間に、おれは変に胸がさわいだ。もしかしたらコイツは、ただ家に帰りたくないのではなく、ここに、居たくているとしたら……。
でも、なぜだろう。親の眼がない所にいるのは気楽だ。それは分かる。けれど、おれのアパートにあるゲームは最新のじゃないし、ソフトも少ない。ビデオもエロはほとんどなくて、ハリウッド大作映画とアニメが少々あるだけ。雑誌はバイクや車系で、マンガはカラーボックス一箱程度だ。これで丸二日ぐらいは退屈しなくても、明日からはヒマで仕方なくなるはずだ。現にさっきまで遠藤はヒマだからゲームをしていたと言った。このアパートでゴロゴロしているのに、飽きてきたからだ。なのに、帰りたいような素振りがコイツにはない。
おれはつぶやいていた。
「おまえ……明日も家に帰らない気か？」
ビクリと、遠藤の指先が強張った。触れていたのが毛先ではなく、まるで針先に指を刺してしまったとでもいうように。
やがて、おずおずと指は離れる。けれども置き所がないみたいに手を宙に浮かせたまま、遠藤はおれの横顔を食い入るように見ていた。
こんなに誰かに凝視されたのは、覚えがない。強いて言えば、去年の北海道のツーリング中にススキノで佐々木と一緒にいった風俗のソーブ嬢が、眼鏡をはずしたおれの顔をしばし物珍しそうに見ていたことぐらいだ。おれはそこで童貞を捨てたが、ソープ嬢はそのことが珍しいと思ったわけではなさそうだった。あの視線は、同期の女子行員が指摘した、おれの外見の意外なギャップとやらに、多少なりと面白味を感じたからではないだろうか。
気のせいか、遠藤の息に熱がこもってきはじめている。
なにか言おうとしているのに、言えないのか……。
相手は男子高生だというのにソイツにじっと見られつづけるざわめく心地よさに、むしろ不安を感じて、ゆっくりと眼鏡をかけ直して立ちあがった。
「……今晩の飯は、コンビニで済ますぞ」
言いながら、炬燵の上にカップ麺の残骸が三つあるのが眼に入った。遠藤が今日の昼間食べたのだろう。買い置きしておいたのは、あと残り二つしかないわけだ。今月の食費はそれなりの出費になるかもしれない。
あとで佐々木に奢らせよう。絶対に奢らせる。そう考えているうちに気が紛れてきた。
遠藤へ一緒にコンビニへ行くかと訊くと、ヤツは首を横にふる。
「……おれのは、テキトーにお願いします。おれ、ちょっと……」
それだけ言うと、背をむけ、トイレへ行ってしまった。おれは、ヤツの前かがみ気味のジャージの後ろ姿の意味を考えたくなくて、それでも、なるべくコンビニで時間をつぶして帰ってこようと思っていた。
四日目も、帰宅すると、アパートの部屋の窓には明かりがついていた。
（どうすんべ……）
階段の手前で、自分の部屋を見あげるのは、もう習慣づいてしまったような気がする。
（怒るべきか、怒らざるべきか……）
それとも呆れるべきか、嘆くべきか。いや、問答無用で追い出すべきだった。
（なんで、できねえんだ……？）
遠藤が住みついても、いまのところ困った問題は、おれ自身にはなにもない。食費と光熱費がかさむが、あとで佐々木にきっちり賠償させる。長期化しても、東京の専門学校へ進学を控えているから、せいぜい一カ月だろう。
（う〜ん）
ヤツが女でも連れ込めば、本当に問答無用で追い出せるが、なぜかそんなことはしそうにない。友達を呼びよせて遊んでいる気配もない。でも、そのうち、その両方をするかもしれない。
（そんときは、そんときか）
おれはくるりと回れ右をして、今晩は飯を作るべく、近所のスーパーへ足をむけた。
五日目も、遠藤はアパートにいた。いつのまにか、おれの部屋に知り合いでもなかった男子高校生が住みついているのに、なんだか現実感がなかった。かといって、部屋で一緒に食事したり就寝したりすることに違和感があるわけでもない。
むしろ、変に自然だった。会話はさほど弾まなかったが、互いに沈黙して静かだからといって気まずくもない。
（おれの部屋、二人暮らしには狭いんだけどな……）
いずれ、窮屈さに辟易して、遠藤は家に帰るだろう。そう考えると、昨日とは違う気分がおれの中にもたげてきた。コイツがいなくなったら、しばらくは寂しいかもしれない……と。
「スーちゃん、それ食わねえの？」
宅配ビザを二枚頼んでそれぞれ一枚食べていたが、一切れ残しておれはぼんやりしていた。
「ん、おまえ、食べてくれ」
遠藤はやけに嬉しそうに笑うと、食べ残しへ遠慮なく手をのばす。
「……おまえって、よく食うのに細せえよなぁ」
おれが言うともなくつぶやくと、遠藤は眉をしかめた。
「おれは着痩せすんの。スーちゃんより、よっぽど筋肉ついてんべ！」
言いながらジャージの袖をまくりあげ、二の腕に力瘤をつくってみせる。おれは苦笑した。
「なに、ムキになってんだ？ 誰もヤワそうだなんて、言ってねえべ」
「んだって……」
ピザを頬張った口をへの字にまげて、遠藤はすねる。まだまだガキなんだなと、ヤツの顔をながめながら、缶ビールを飲んだ。遠藤もなぜか負けじとコーラを飲む。ビールぐらい飲ませてもかまわないかと思っていたが、意外にも遠藤は下戸だった。
食事のあとは、テレビを見て、いつものように風呂へ入り、並べて敷いた布団で眠る。明日の金曜日出勤すれば、土日の週末は休みだ。週末は佐々木を呼んだほうがいいだろうな、と、うとうとしかけていたら、寝返りばかりしていた遠藤が、ふいに起きあがってユニットバスへ行った。トイレにしてはやけに長くて心配になる。
ピザにあたったのかとも思ったが、おれの腹はなんともない。様子を見に行くべきかと考えはじめたところで、ヤツは戻ってきた。
どうしたんだ、と訊こうと思ったが、おれは寝たふりをしてしまった。
自分でも分からないが、知らないふりをしたほうがいいと咄嗟に考えていた。本当に、どうしてそう思ったのか分からなかったけれど……。
翌日の、六日目の金曜の朝、なにか温かい感触を顔に感じて眼がさめた。
どこが温かいんだろうと、寝起きの布団の中で淡い快感につつまれ、瞼をとじたまま、その感触のありかを意識でたどった。
額に、息がかかっている。
頬には、もっと、熱い息が濡れるほど、かかっている。
そうして唇に、温かく触れられ、そっと、ぬめった熱いものに、上唇と下唇の隙間をまさぐられた。
「……ん」
吐息とも声ともつかないものが喉奥からもれて、その気持ちのいい感覚はゆっくりと去っていく。
瞼をあけて、視線をさまよわせる。すぐ隣で寝ている遠藤が、おれに身体をよせている。
いや、そうではなくて、おおいかぶさっていた。ヤツはぎこちなく上体を離して、やにわに背中をむけ、掛け布団にゴロンとくるまった。
おれは、ぼんやりしたまま、これは夢だと自分に言い聞かせようとした。
起きて顔を洗い、スーツを着てネクタイをしめて、防寒コートを着込み、スノトレを履いて、おれはいつもどおり出勤した。そしていつもように仕事をして、定時にあがり、まっすぐアパートへ帰ったが、部屋に明かりはついていなかった。
階段下から、自分の部屋の窓を見あげるおれの心臓は激しく高鳴っている。もしかしたら、泣きたいのかもしれなかった。ここ一週間近い出来事は、奇妙な夢を見ていたのだと思えばいいのに、そう思いたくない。
おれは、決して、そう思いたくなかった。
二月末になって、空気にぬるい湿り気が混じってきた。まだ凍結した道路を歩きながら、冷たい風の匂いに、春めいた気配をかすかに感じたくなる季節だった。
遠藤がいなくなって一カ月経とうとしていた。
結局、おれは佐々木へ、食費も請求せず、ヤツとの日々も言わなかった。佐々木もなにも聞いてこない。たぶん、佐々木の周囲にいる連中のやることのうちでは、遠藤のしたことは大したことではないのだろう。
夜が更け、風が強くなってきて吹雪いてきた。
炬燵にあたって缶チューハイを飲みながら、レンタルビデオの映画を見ていた。明日は土曜日だから、おれは酔っぱらいかけて、炬燵にあたったまま眠りかけていた。
ピュー、ピューと、ひどい吹雪の音に、無性に落ち込んでいた。あれから吹雪の夜になると、おれはドアをノックする音を待ってしまう。こうして、まだ遠藤のことを覚えているのに、アイツはおれのことなんて、とっくに忘れてしまったに違いない。
「……え……？」
幻聴かと、思った。おれはいま酔っているから……。けれど、間違いなく、ドアがコンコンとノックされている。
「は……い」
一気に酔いが醒めていた。玄関のドアを開ける。
遠藤だった。今夜はガクランではなかった。ジーンズにダウンジャケット姿だった。
「……家出してきた」
このまえよりも思いつめた声で遠藤は言った。
「また……?」
けれどおれは、無愛想な声を出してた。
「……うん」
うつむく遠藤に、つい、「入れよ」と言っていた。
「あの……、このあいだは、黙って出てっちまって、すんませんっ」
部屋へ入ってもヤツは立ったままで、おれが炬燵に座ると、ようやくそう言い頭をさげる。
「いいよ、べつに。それより炬燵にあたれ」
ダウンジャケットを脱ぎ、遠藤は座る。たった一カ月経っただけで、少しガタイが良くなっている気がした。一番身長が伸びる年齢だから当然なのに、おれには、そんなコイツがまぶしく見えてしまう。
「泊まってってもいいけど、今度はホントに今夜だけだぞ」
念を押すように言った。軽く、でも、距離感を保って。でないと、おれは馬鹿なことを考えてしまいそうになる。
ずっと、ここにいて欲しい……とか。
好きなときにいつでも来て欲しいとか……とか。
そんなおれの眼を見て、遠藤は意を決するように、一度だけうなずいた。
並べて敷いた布団を凝視したまま、風呂からあがった遠藤は立っている。
おれは先に布団の中へ入って、ヤツの視線から顔をそらし、胸が高鳴ってどうしようもない苦しさをこらえていた。
コイツがいなくなったときの鼓動とは別の、狂おしい激しさで、まるで心臓が喉からせり出しそうなほどだった。いままで生きてきた中で、最高に心拍数が高いに違いない。
「スーちゃん……、おれ……、その……」
つぶやくなり、遠藤はおれの布団におおいかぶさってきた。
あの日の朝と違って、ヤツの身体の重みがかかってくる。なにか言わなければと思ったが、なにも言葉が浮かばない。
「好きだ」
はっきりと、おれの耳元で、遠藤は言った。あまりの息の熱さに、痺れたように動けなかった。
男同士なのに……男同士なのに……、それにコイツ年下だし、まだ学生だし、と思考は空転する。
「好きだ……スーちゃん……」
布団を剥いで、入ってこようとする。
「おまえ、なんでこんな……」
少しばかり抵抗しながら訊く。
「スーちゃん、おれのタイプ」
遠藤はぬけぬけと言った。
「って、おまえ……男でもいいのか？」
抵抗を諦めたおれの手首はやんわりと握られる。
「……おれ、後輩とちょっと遊んだことあるし。女より、男のほうがヨカッタし。スーちゃん、好きだから」
さらに堂々と遠藤は、Ｔシャツの裾に手を入れてきた。
「でも、なんで、そんな、好きなんて……変だろ？」
ヤツは完全におれを組み敷いて、限りなく真剣な顔をして、すごく熱い、かすれた声を出した。
「いきなりここに来たのに、やさしく泊めてくれて、居心地良くって、ずっといたかったけど……。でも、スゲー好きになっちまったから、おれ、我慢できなくて……。だから、あのときは出ていくしかなくって……」
おれの唇は、息ごとのしかかってきた遠藤の唇に吸われてしまう。熱い鼓動で上下する胸が、ヤツのそれと重なって、痛いほど響きあった。おれに男同士とかのこだわりがないと言えば嘘になるが、それがどうでもいいほど、コイツの情熱と素直さに惹かれてしまっていた。
息がつらいほど唇と舌を吸いあい、互いの雄を掌におさめ、湯上りの肌と肌を強くすりあわせた。
汗でぬらつく身体の奥へと指がのびて、おれは吐息で拒んだけれど、遠藤はさらに指でそこを押し開き、興奮にもれた体液をからめて愛撫する。その指先には、しだいに甘い強弱がこもっていった。ひどく痛いけれど、おれは我慢して、それから、より大きな痛みと灼けるような感覚を懸命に受け入れる。ヤツも、なれないおれの身体につらかったようだが、おれたちは終わったあとも、深く抱きあう快さに浸ったまま、一組の布団で眠りについた。
ヤツが東京の専門学校へ進学し、遠距離恋愛の紆余曲折を経て、いま、遠藤と一緒に暮らしている。あのアパートから引越しして、倉庫みたいな一軒家に、おれたちは住んでいた。
おれはリストラされずに銀行へ勤めつづけ、遠藤はこの街で一番流行りの店で美容師をしている。
そして約束どおり、遠藤は、おれの髪をカットしてくれる。
「誰にも、スーちゃんに触れて欲しくないから」
と、ヤツはささやきながら、その官能を増した指で、おれの身体をかき乱しつづけた。
2005年5月3日発行コピー誌